碧の日々徒然

碧の日々のことを徒然と

映画17本目『女神の継承』2022年公開作品

どうも夜更けにこんばんは。一度間違って途中までしか打ってないのに公開して慌てて消しました。私の指太いんかな(笑)なので遅くなりつつ出来上がり~で公開です。改めてアラスジ・ネタバレして書いていると、なおのことこれってああだったんじゃなかろうか?と考え直すことしきり、わりと時間かかっちゃいました

タイ東北部、イサーン地方の小さな村に暮らす女性ミンが突如体調不良に陥り、それまでの彼女からは想像できない凶暴な言動を繰り返す。ミンの豹変になす術もない母親は、祈祷師をしている妹ニムに救いを求める。ニムは、ミンが何者かに目され、取りつかれたために苦しんでいるとにらむ。ミンを救おうと祈祷を始めるニムだが、憑依している何者かの力は強大で次々と恐ろしい現象が起きる。


『哭声/コクソン』などのナ・ホンジン監督が、原案とプロデュースを担当したホラー。タイの村を舞台に、祈祷師一族の家に生まれた女性が不可解な現象に襲われる。メガホンを取ったのは『愛しのゴースト』などのバンジョン・ピサヤタナクーン。サワニー・ウトーンマ、ナリルヤ・グルモンコルペチ、シラニ・ヤンキッティカンらが出演する。

さてここからアラスジ・ネタバレになります。未観賞の方はGO!back!!でお願いいたします。それでもいいよと言う猛者はどうぞお進みください。










物語は女神バヤンの巫女・ニムの日常を追うテレビ番組の撮影と言う形で始まる。冒頭のインタビューで、ニムはこの地域に今なお根強い精霊信仰や、色々な精霊の存在、信仰と精霊と人々との間をつなぐかのような巫女の仕事・立場を語りつつ


病気なら医者に行って。私では無理


と、巫女の仕事にきちんとした限界や役割の範囲をリアルに捉えている事も語る。これは今の世の中における現代的シャーマニズムや、科学とか医学と共存する土着信仰だとかのタイの習俗を語っている。ニムはおおらかに現代の巫女として『自分は万能ではない、無理な事は無理だ』と語っているのだと思う。


女神バヤンに選ばれた家系に起きる巫女の『継承』を主軸に展開しつつ、その実、映画を進めるともう一つの『継承』が起きていた事を明らかになってくるのだが、そこはまた先に。


女神バヤンに代々選ばれ仕える巫女を多く輩出してきた家系だというニムには、兄と姉がいて2人はそれぞれに家庭を持ち子供もいる。ニムが未婚なのは祖母が巫女であったことから考えれば、巫女は処女とか未婚を基準にしているわけではなさそう。女系だけが選ばれるというのが唯一の基準なのかもしれない。そんな日々の取材の途中ニムの姉ノイの夫ウィローが癌の闘病の末亡くなって、葬儀が執り行われる。その道すがらノイの夫ウィローの家系について男性が早死にするという話に(途中道に犬の死骸があるのだが、それへ向けるニムの視線が意味ありげにも見える)。方や女性が巫女に選ばれる家系と男性が早く死ぬ家系なんとなく気になるワードではないですか?ニムは巫女の仕事が忙しいのか、葬儀に顔を出した途端兄マニに人が死なないと顔を見せないなんて嫌味を投げつけられる訳だが……これは女だけが巫女を継承しているからというよりは、どことなくマニ一家と同居している形の姉ノイを避けているのではないかなとも後から考えれば思えなくはない。


葬儀には土着の信仰ではなく、ノイが回教しキリスト教信者になっているため牧師の姿も。しかし、映画を見ていて気になったのは、ノイの娘ミンが父の遺体を見つけたのだという下り。


大丈夫?ショックだったでしょう?


叔母として優しく声をかけたニムにミンは


別に?


とケロリとした顔で答える。べ、べつにぃ??

一年の闘病生活は遺体を見つけたという言葉から想定すると自宅療養か?それとも病院?どちらにせよ、父親の遺体を見つけた娘の言葉としてはかなり異質。親子仲が悪かったのか?涙の一つもないし。んんん?タイのお葬式とはそういうものなのか?と一瞬不安すら覚える。後から思うがこの異質さが既に始まりの証なのだとしたら、それはそれで怖い。


葬儀の後近親者だけが葬儀場に泊まる様子だが、唐突にミンがノイの薬や荷物を取ってきてとニムの腕に触れる。その瞬間の何らかの違和感を感じた様子のニムの表情をなんと表現するべきだろう。なんだか虫かなにか嫌なものに触られたように見えるのは私だけだろうか?っていうか、何故ニムに頼むのかな?同じ家に住んでいる兄夫婦にはまだ乳児がいるから?でも兄ちゃん酒飲んで騒いどるだけに見えるんだが。娘が行ったらもっと早いんじゃないかね?あ、ミンは運転できないのかな?


何はともあれ荷物を持ってきてくれたらくれたでありがとうもなく文句から始まるノイに『それなら自分で行けば?』うん、私もそう思う。でも喪主だから離れられないのかな?というかタイにも喪主はあるのであろうか?キリスト教でも挨拶があるしな、きっとあるはず(笑)

直後背後で突然ミンがマニ達と盛り上がっていたオジさんに向かって突然の暴言。その後ニムはマニの妻パンにいつもミンはあんな風に酔うのかと問いかけるが、パンはこんなのは初めてだと。そして皆が眠りにつこうとした中、ミンが暗闇の中で起き上がり盲目の老婆を見つめる姿が。

このシーンに関しては様々考察があるようだ。盲目ゆえにミンが何かに取り憑かれているのを察して見に来たのではないか説が多い。要するにあの老婆は、この一族に悪いものが入ってきたことを可視化する不吉なサイン。正体を一人に決めるより、ミンの憑依が単独の神がかりではなく、死や呪いに結びつくものへ傾いている演出なのではないかと思う。翌日お婆さんが亡くなった後のミンの奇行もそれを臭わせているような。 


さて、ミンの変化が少しずつ現れ始めた時にニムは一度は女神バヤンの継承を疑っている。だからミンの家捜しにいって、悪夢避けのお守りを見つけノイに突き付けるわけだが、ノイ自身が女神バヤンを拒絶した人間なのだから、はい・そうね、うちの娘もなのね。とはいかない。

でも次第に性格の変化や奇行・そして体調不良、経血等がミンに現れ始め、ノイは自分も経験した事と同じものとして兄マニには相談する。ここで面白いのは、やはりノイは巫女になることを忌避したいものとして語っているけれど、男性であるマニですら血族からバヤンの巫女になる者が出るのは仕方がない・もしくは当然のことと認識しているということ。ミンに異変が起きたとき、人々が

女神によるものだ

と自動的にプラスの(ノイやミンは巫女になるのを嫌がっていたが、それでも女神によるものだと疑いもしていない)解釈をしているところが、これまでのこの一族の自然な感覚なのだろう。


さて霊によるいわゆる霊障、霊のせいでおかしな症状が出る描写はナ・ホンジン監督の『哭声』は

・狂暴化した言動

・人が変わったような形相と行動

として表されている。『哭声』では、これらは良くあるキリスト教徒の悪魔憑きのイメージなのかな、と思っていたが、今作でのには更に 

・経血

・異常な性行為

・這っての歩行

・所構わぬ排泄

・悪食

が加わる。今更だが、これって文字にするとかなりヤバイ。悪魔憑きじゃなきゃ何なんだってなくらいじゃなかろうか?後半三つは終盤の行動だが二つ目だって絶対にまともじゃない。

経血に関しては女神バヤンの女性性として巫女に選ばれた者に共通して起こるとノイもニムも語っているし、マニですらそれは巫女に選ばれたんだろ?と語るくらいだ。

他がそれ以降の奇行が現れ始めて初めてこれは何かが違うとニムが気がつく。それはバヤンの巫女であるニムだから気がつけたのだと思う。それこそ葬儀の際に触れられたあの違和感なのではないだろうか。そして次第に奇行が悪化し堪えられずに手首を切ったミンにノイが継承の儀式を願い出るが、ニムはそれを断る。その時点で恐らく違和感の原因が別なモノにあるのではないかと気がついたのだと思う。それが先にバイク事故で死んだとされたミンの兄マックの存在だ。

結論マックとミンは実の兄妹でありながら愛し合っていたような疑いがあり、近親相姦(そういうのを畜生道に堕ちるなんて表現をすることがある。なおかつヤサンティア家は禁じられている犬肉を売り続けている、もう畜生まみれなんじゃなかろうかという家系なのだと思うと正直ゾッとする。)を苦にしてマックは首をつったのが真実だった。

それを知って真摯に何日も雨の日でも、甥の自殺した木の下で儀式を続けていたニムの、巫女として祈り続けていた気持ち。

それなのにそれすら信じられず別な祈祷師の元にミンを連れていったノイ。あの時の車の窓に映るミンの邪悪な笑みはそれこそが狙いどおりという笑みだと思う。ヤサンティアの真実も知らず、女神バヤンも信じず、自身の宗教であるキリスト教すら信じない。最近別な映画で

『祈りの気持ちによって運命は変えられる。人の祈りが流れを変える』

というような言葉を聞いたのだけれど、ノイが選んだのは真逆。一心に何かを信じ祈ることではなくて手近なものから、なんでもいいから試して何かないかと模索しているように見えなくもない。それは逆に人が祈ろうと、何かを信じ祀ろうと、止めることや変えることの出来ない超常の存在・現象・悪意ある何かがあると告げようとしているみたいに見えるのだ。

人は恐ろしいものに無力でしかなく、精神的に折り合いをつけるかのように懸命に祈ることしか出来ないし、それでも何も変えられないのだ、と。


ニムが祈祷を止めに来た時、ミンが襲いかかったのはニムではなくノイだった。女神バヤンを一心に信じる巫女ニムではなく、なにも信じるもののない上に信じるべきものだったものを拒絶したノイに襲いかかったのは、この状態のミンに手がだせるのはそちらだからだったのではないだろうか。

そして結果的に一ヶ月も行方不明になったミンを探しだせたのはやはり女神バヤンの巫女であるニムだった。ただし最初に思ったマックからの思いではなく、もっと大きく巨大で手のつけられない何かの怨霊の存在を見つけてしまうことになった。そして同時にそれに手を出したニムは知りたくなかった真実をまざまざと知らされることになる。


知っているか?おまえの姉さんは女神の巫女になるのを拒絶するために、ニムの靴に護符を敷き、ニムにノイの服を着せバヤンにニムをノイと誤認させたんだ。


それをミンの口から聞かされたニムは、直後に姉ノイの口から謝罪されたことでそれが真実なのだと知ってしまった。

これがどれだけ残酷な真実か分かるだろうか?

ニムはノイが巫女になる継承の儀式を拒否しただけなのだと思っていたはずだ。ノイが巫女を拒否したから女神バヤンは次の継承の資格を持つニムを選び直したのだと信じていたに違いない。それが実はニムをノイと誤認させて選ばせたのだということは、女神バヤンは個人を認識して選択するわけじゃない。下手をすれば女であれば別に誰でもいいのかもしれない。何も特別な能力も持たなくても、ただ受け入れるだけの器であれば……女という器であれさえすればいいのだ。


ミンを部屋で紐で封じて出てきたニムの疲れきった表情は、身体の疲労だけではなく、心の支えが折れかけた証拠なのではないだろうか。そして信じていたものが、実は自分がただ『信じたい形で都合良く信じていただけ』いわば……自分の都合の良い解釈であった、とも言える。そうニムは言葉にはしなくとも思ったのではないだろうか。


そして、ニムは彼女が唯一祈祷師として信頼できるサンティの元にミンを連れていく。以前のノイが連れていった祈祷師と変わりのないように見えるサンティだが彼は騒ぎがおさまり静まり返った施設の中、ミンに触れただけで、『この子を何に連れていったんだ?』と言い当て、しかもミンの魂がミンの身体から離れている、そしてヤサンティアの恐ろしいもう一つの『継承』について語り出したのだ。

先祖の大量虐殺の悪行により不幸な死を遂げ続ける一族の業。劇中の言葉から察するに、初めはヤサンティアの先祖に虐殺された死者と遺族である子孫らの怨念だけだったのが、犬肉売りを重ね屠殺された犬の動物霊も集め、更にそこに雑多な鳥や虫や植物の霊まで集まり悪霊が吹きだまり強大な怨霊となってしまっているらしい。

そしてそこに女神の巫女の素質を持つ一族の産まれながら女神を騙し拒絶したノイという女の血が混じったのだ。巫女の素質を持つ神を信じないノイが結婚した男のヤサンティア家が継承してきた先祖の虐殺の業が、二人の子の代で一気に霊的な力を得て数多の怨念を集め増幅・爆発した。怨念は、憎きウィローの家系を絶やそうとするだけでなく周囲を巻き込み動き出しているというのだ。


虐殺の業の血(父の血)と、女神の加護を捨てた血(母の血)の混ざった娘・ミン。

つまりミンは怨霊の呪いの力をフルに発揮できる霊能力という器を能力として持った所謂ハイブリットだったわけだ。

ここで先に述べた悪魔憑きの残りの三つ・這っての歩行、テーブルに乗っての排泄、悪食という、完全に獣性が明らかになってきく。(ワンコ可哀想やぁ…)

映画の見せ方として、このミンに起こる異変の段階は最初のミスリードが秀逸だ。誰もが女神の巫女としての影響とおもったものが、次第に邪悪に醜悪に獣になっていく。

本来見せたがらない行動をこれでもかと露呈するミンが人間じゃないものに支配されている

その不快感を体当たりの演技で見せたミン役の彼女は撮影を通して10キロも痩せたそうで、彼女の演技は本当に取り憑かれたかのようで凄まじい。



そして女神に祈り大切に信仰し、精霊と関わり、人を助けて生きてきたニム。その彼女の突然の眠るような死は、巫女として悪霊に太刀打ちしきれなかった霊力の敗北なのか。女神像が壊れた事でバヤンの巫女として心を保ちきれなくなった精神的な限界だったのか。

個人的な意見としては、やはりノイの言葉が彼女の折れかけていた心を更にへし折ったように感じる。

会ったことがあるのか?本当にいるのか?

それはニムに問う言葉ではないと思う。

あなたは何を信じているだろう?仏教?キリスト教?ちなみに私は完全な無宗教であるが、日本人なので寺や神社は拝む。ついでに亡き妹はお寺さんに預かっていただいている。それでも無宗教者であり、神は信じていない。いるかもしれないが、そのために何かをしようとは思わない。それだから無宗教者を名乗る。

宗教を信じている人の中で『ええ、私はいつも直にあっている』そう答える人に出会ったことがあるだろうか。時々突然の訪問をしてきて、子供連れで神のご意向について語る人とはあったことがあるが。

信仰は時には神や聖なるものを目に見える形として表さないともいう。ではニムが感じてしまった自分が唯一の巫女として選ばれた者ではない可能性と、ノイに更に見たこともないモノを信じられるの?本当にいるの?と問われた彼女の心の葛藤はきっと激しく哀しく辛かったと思う。

女神バヤンの折られた首にすがり付き嗚咽する彼女はいかに自分の信仰を守れば良いのか分からなくなったのではないだろうか。その彼女の本心が最後に流れるインタビューの姿と嗚咽なのだと私は思う。信じていたはずのものが『もう分からないの!』という本心からのニムの叫びだ。

だから彼女は準備の最中に心が先に悪霊に負けてしまったのだと思う。彼女が女神バヤンを信じる巫女のままでサンティと協力できたのならば、もしかしたらミンは助けられたかもしれない。まぁ……これは希望的観測なのだろうが。


この車は赤い』のステッカーの話も同様に、信じたいものを信じたい形で信じる、という人の心による『プラス解釈』の暗示性に絡むものなんだそうだ、祈祷師サンティが儀式の危険性を問われたとき、このステッカーに絡めて語りたかった事は何だろうと思う。

個人的には『信じるものは救われる』と信じたい・信じようなのではないだろうか。



さて最後の儀式何故ミンではなくノイがミンのふりで行ったのか。これはある意味ノイが過去にニムにしたことの意趣返しみたいにも見えた。

ただミンを実際に霊媒として連れていって成功の確率は実は0%だったのではないだろうか。何故ならノイは一度はバヤンの巫女に選ばれた素質がある。でもミンはバヤンに選ばれたわけでもなく触れたこともなく、バヤンを信じる素地も母以上に全くない。キリスト教を全く知らない人間にキリスト教の礼拝をしろといって出きるはずがないじゃないか。確かに半分母の血は引いているが、もう半分は父の血でしかも近親相姦の罪もありサンティとマニに彼女を儀式の間思い通りに動かすことが出きるとは思えない。

だからこそノイの靴に護符を敷きミンの服を着せ、悪霊達に誤認させ悪霊を集める媒体にしたのだろう。(護符を靴に敷いた時点で、彼女がミンではないのはわかった。)これでもしも、ニムが生きていたのなら、この役はニムが行ったのかもしれない。であれば付き添いはノイになり、またその逆もあり得た。ノイがミンの役をニムが付き添いを。霊媒として悪霊達をひとまとめに憑依させ坪に封じ地面に埋めることも可能だったかもしれない。

だけどバヤンの加護のない家で悪霊に耐性のない兄嫁パンが部屋を見守るのでは目の前のベビーベットにポンがいても見えなくさせられることくらい容易かっただろう。ここにもしバヤンを信じる一族のマニがいれば、これまた違ったかもしれない。男とはいえ一族の人間だからパンとポンを守るくらいの加護はえられたかもしれない。

そうなにもかも、もう全てたらればの世界。

結論としてパンはポンの鳴き声を真似るミンに騙されサンティの部下の言葉を無視して封印を厳重にしていた札を引き裂き扉を開け放った。そのせいで一つに集約しようとしていた悪霊は開け放たれて封印は失敗する。一番濃い悪霊の傍にいたサンティは壺ごと転落し全身の骨が砕け死亡する。それと同時に工場跡では絶体絶命・阿鼻叫喚の地獄が始まる。しかも自宅でもヤサンティア一族ですらないサンティの弟子だけでなくパンもポンもテレビクルーですら惨殺されてしまう。工場跡でサンティの弟子達が狗のようになったのはヤサンティアの殺してきた狗達が放たれた証拠だろう。そして呪いの近くにいればいるほど狂気は深く侵食するのは言うまでもない。

血塗れのノイが突然の女神の存在を感じ始めたかのようにトランス状態に陥る。一見すればバヤンに許されバヤンが降りてきたかのように見える。恍惚とした表情に自信に溢れる指示。そして悪霊の入っていた壺を包み、再び儀式を再開を宣言する。

だが、最初から映画を見ていたのならば記憶にあるだろう?本当の女神バヤンの巫女が穏やかにおおらかに口にした言葉の数々。

彼女は『身体を揺らして他人の言葉を話すことなんかないの、私ができるのは精霊が病を起こしたのを治すだけなのよ。病気になったら病院へ行ってちょうだい。』

ノイはこれまで巫女として何も経験がない巫女としても経験がない、バヤンを信じることもバヤンが存在して身体に降りることも感じたことがない。

それはニムが言っていた言葉を使うならば、ちゃんとあなたも私も信じて出きる人に、正しいことをやってもらってちょうだい。なのではないだろうか。だから私はこの瞬間のノイに降りているのはバヤンではないと思う。怨霊の一部なのだろうと思う。

結局ノイは娘の声にトランスから覚め、母親に戻ったその瞬間、ノイはミンにより傷つけられ、油をかけられ生きたまま焼かれてしまう。煌々と燃え、無情にノイを焼くような炎の光に、ヤサンティア一族の名を書かれた呪具らしきものが勝ち誇ったように光っている。


感想として思うのは、信仰は確かに力であり大切なものなのだ。信じられるから仰ぎ敬うことが出きる。それは神であっても精霊であっても、そして真逆の存在であっても同じなのではないだろうかと思う。だからこそ女神バヤンの巫女なのよと宣言した時のニムは威厳すらあった。数本前ホラー作品の中のアブラクサスのように、ノロイの禍具魂ように、良くも悪くも信じたからこそ可能になってしまうことはやはりあるのだろうと思う。土着の精霊や信仰、祈りそんな様々な信じるべきものに満ちた世界ならではの物語なのかもしれない。




ちなみにタイの習俗では、占いなどで『車の色が良くない』と言われたとき、車を買い換えられないからと別の色の車として扱う、という実際にあるものらしい。へぇーだから黒い車なのに『この車は赤い』なのかぁ。迷信みたいなもんだけど、軽いおまじないみたいなものか。

『女神の継承』を観ていて感じる恐怖や、祈りが通じない結末への絶望と、どこか結末を知っていたような感覚は、祈りの先に本当に救いはあるのかという不安を思わせる。

あの後ミンはどうなったのだろう……ヤサンティアと母の一族を皆殺しにして満足できたのだろうか?

そんな最後まで物思いに更ける作品でした。タイの温度感も感じる作品ですね、少し長めの作品ですが機会がありましたら是非とも。アマプラでは配信中です。

それでは長くなりましたが、皆様良いホラーな夢が見られますように。また明日

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